干し鮑ってなに?

岩手県大船渡市三陸町に、天然あわびの蓄養から加工までを一貫して行う有限会社田村蓄養場があります。そもそも干し鮑をご存知ですか?干し鮑は、天然アワビを塩漬けし、蒸し、時間をかけて乾かす食材です。乾燥だけで三ヶ月から半年。さらに料理人が使う際は、一週間以上水で戻しては火にかけ、冷ましてはまた戻す…という気の遠くなる工程を繰り返します。

三陸のアワビは古くから良質な昆布を食べて育つことから、香港では“世界一”と評価され、吉品(キヒン)アワビの名で扱われてきました。しかし日本国内では、戻しの手間から一般家庭とは距離のある食材でもあります。

干し鮑は世界唯一の食感のスポンジなんですよ。

こう話すのは、三陸営業所所長の三ツ井裕さん。干し鮑は出汁がほとんど出ない。そのかわり、味を含ませる“器”としての存在感が唯一無二で、プロが時間をかけて仕上げてこそ美味しさが開花します。手間と技がすべてを決める世界だからこそ、職人の腕が光ります。

アワビは嘘をつかない

田村蓄養場の歴史は、戦後の千葉県御宿町で会長がアワビ行商を始めたことに遡ります。陸上生け簀の導入、そしてより良い環境を求めて岩手へ。活鮑から煮鮑、そして干し鮑へと事業を広げていきました。三陸の海と向き合いながら、干し鮑づくりは脈々と受け継がれてきました。

干し鮑をつまみに、お酒を飲みながら語る時間がたまらない。

もともと不動産の仕事をしていた三ツ井さんは、岩手でアワビの美しさに魅せられたひとり。「商談で香港に行くと、驚くほど歓待されるんです。それだけのものを、私たちは作っているんだと実感します」と話します。

干し鮑は育つ環境も、戻す手間も、味を入れる時間も、すべてが積み重なって一つの味になる食材。三ツ井さんは「アワビは嘘をつかないんですよ。いい昆布を食べて、いい環境で育てて、時間をかければ、必ず美味しくなる」と言います。その言葉には、海と向き合ってきた人間にしか出せない深みがありました。

干し鮑を家庭料理の食材へ

今、三ツ井さんたちは大きな転換点に立っています。震災を乗り越え、やっと輸出が軌道に乗り始めた頃、今度はALPS処理水の風評被害で中国への輸出が完全に停止。主な販路が途絶えるなかでも、製造を止める選択はありませんでした。

国内に向き合うしかなかった。

そんななかで田村蓄養場が選んだのは、国内向けの商品開発でした。「困って困って、ようやく国内に目が向いたんです」と三ツ井さんは苦笑するが、その表情は明るい。これまで、干し鮑はその手間と価格ゆえに、食卓からは遠い存在でした。「戻すのに1週間」など、今の時代に合うはずがない。そこで開発に乗り出したのが、誰でも手軽に食べられる「レトルト干し鮑」です。

アワビってこんなに美味しいのを知って欲しい

三ツ井さんたちは、戻しと味付けの工程をあらかじめ行った姿煮の開発に着手。高級中華でしか食べられなかった味を、もっと身近に楽しめるようにするための挑戦です。さらに料理人向けには、味付け前の戻し済みの状態で提供する“途中バージョン”も準備しています。

試作は一度で決まるわけではなく、柔らかさや味の入り方を何度も確認しながら改良を重ねています。納得できない仕上がりなら、延期や中止も辞さない。妥協をしない姿勢に、干し鮑づくりへの誇りがにじみます。そこには、震災をも乗り越えた不屈の魂と、世界一を守り抜く職人たちのプライドが詰まっています。