福島県相馬市。松川浦のほとりで「常磐もの」の魚を扱ってきた中澤水産は、もともと活魚を中心とした卸の仕事をしてきました。ヒラメ、スズキ、タイ、タコ、メヒカリ。季節になればアサリやあおさ海苔、トラフグ、太刀魚も水揚げされます。相馬の海は魚種が多く、その数は200種近いとも言われています。中澤水産には、ろ過装置と冷却装置を完備した生け簀があり、海水を直接くみあげて魚介類を管理するため、注文に応じて最高の鮮度で出荷することができます。また、冷却装置を備えた自社の活魚車で、水揚げされた魚をその日のうちに豊洲市場などへ届けることも可能です。
うちの仕事の内容も変わってきたね。
「親父の代は活魚、私が鮮魚の扱いをはじめて、息子たちが加工をやり始めて。」と話すのは、3代目で代表取締役の中澤正英さんです。卸の仕事は、魚を買ってそのまま出す形が今も主流です。相馬でも、そのスタイルは変わっていません。だからこそ、自分たちでフィレにして冷凍し、加工まで手がける設備を持っていることが強みになります。その加工の現場に立っているのが、「オーシャンブラザーズ」と名乗る二人の息子です。加工品の企画から製造、販売までを担い、父の仕事の延長線上に新しい形をつくり始めています。
離れたからこそ見えた相馬の力
東日本大震災のころ、兄弟はそれぞれ大学生と高校生でした。本来であれば卒業後に家業を手伝うつもりでしたが、当時の状況を前に「この先どうなるかわからない」と判断し、二人は東京で就職します。相馬の水産業の先行きが見えなかったこともあり、一度外に出る選択をしました。
東京での暮らしは、兄弟にとって大きな転機になりました。魚は身近な存在ではなくなり、自然と食卓から遠ざかります。「福島の魚って、こんなに食べにくい存在だっただろうか」。そう感じるようになったと言います。だからこそ、帰省のたびに再稼働し始めた中澤水産を手伝いながら、「相馬の魚をもっと手軽に食べられる形にできないか」と考えるようになりました。
自分たちで相馬を盛り上げようって気持ちで戻りました
決定的だったのは、ゴールデンウィークの帰省でした。スズキを3トン仕入れたものの人手が足りず、「これ大変だから、帰ってこないか」と父から声をかけられます。町も港も、少しずつ動き始めているのが分かりました。復興が進む相馬を自分たちの目で見て、「ここで商売を続ける側に回ろう」と腹を決め、兄は長期的に相馬へ戻ることを決意します。
父の土台の上で兄弟がつくる次の形
兄弟が最初に形にしたのが、「常磐もの」のヒラメと松川浦のあおさを使った商品でした。小さい頃から食べてきた魚だからこそ、味も価値も分かる。目利きは漁師がしている。だから、自分たちが自信を持って伝えればいい。そうして生まれた加工品には、「オーシャンブラザーズ」のロゴが入っています。最初は少し気恥ずかしさもありましたが、今では開き直って名乗っています。
字が小さくて見えねぇ。
父の正英さんにとって、息子たちはもう「手伝い」ではありません。「今日どうすんの?」と自分が聞くこともあれば、「これ手配して」と息子から指示が飛ぶこともあります。たまにLINEで送られてきて、「字が小さくて見えねぇ」と笑う。そうしたやり取りの中で、震災後に立て直してきた中澤水産は、次の世代が自然と中心に立つ形へと移ってきました。
敷地内では、4人の孫が走り回ります。海と仕事と家族が同じ場所にある日常が戻ってきました。中澤水産はこれから、自社の商いだけでなく、相馬や福島の魅力を一緒に届ける存在になろうとしています。父がつくってきた土台の上で、息子たちが新たな道をつくる。その現場は、今日も松川浦のそばで動いています。
