サンマが回ってくる町で育った
福島県いわき市・小名浜。港が大きく、着く船も大きいこの町では、かつてサンマは「買うもの」ではありませんでした。10月、11月になると水揚げが一気に増え、家で食べきれないほどのサンマが回ってきます。親戚や近所からのお裾分けで、自然と食卓に並ぶ魚だったといいます。
上野台豊商店の代表・上野臺優さんも、そんな環境で育ったひとりです。サンマは塩焼きや刺身、なめろうにして食べるのが当たり前。刻んだサンマに味噌と生姜、冷蔵庫にある野菜を混ぜ、ハンバーグのように焼いたものが「ポーポー焼き」でした。
魚は好きじゃなかったけど、ポーポー焼きだけは食べてました。あれは祖母の味ですね。
家庭ごとに配合があり、港ごとに文化の違いもあったといいます。隣町では酢をかける、別の港では甘めにする。そんな微妙な違いも、子どもの頃の記憶として残っているそうです。
しかし、上野臺さん自身は魚があまり好きではなかったといいます。イワシの丸干しが家のまわりにびっしりと干され、干し場をかき分けて家に入る毎日。魚に囲まれていると、かえって魚を食べなくなる。浜で育った人には、よくある話かもしれません。
23歳で戻ることになった、家業の現場
上野台豊商店の創業は1960年。イワシの丸干し加工から始まり、父の代で法人化。やがてサンマの鮮魚販売や開き、みりん干し、ポーポー焼きと扱うものが増えていきました。小名浜はサンマのみりん干し発祥の地とも言われているが、上野臺さんは「ブランディングはまだまだ」と冷静に話します。
いい商売だよ。
子どもの頃は、家業を継ぐことを強く意識していたわけではありませんでした。進路を考え始めた頃、父からかけられた言葉は「いい商売だよ」。生活できる、という意味だったのだろう。名古屋の市場で修行を始め、魚の販売を学ぶ日々が始まりました。毎日魚を食べる生活のなかで、これまで気づかなかった魚のおいしさに出会ったそうです。
そんな矢先、23歳のときに父が亡くなります。闘病期間は短く、引き継ぎの時間もほとんどありませんでした。名古屋から小名浜へ戻り、経験も知識も足りないなかで、会社を背負うことになります。父が築いてきた商売のつながり、周囲の助けを借りながら、なんとか仕事を回してきました。
正直、こんなに大変だとは思ってなかったです。
まあ、まんまと騙されましたね(笑)。
それでも、サンマで生きていく
上野臺さんにとって、サンマは今も会社の中心であり、柱となる魚です。かつては水揚げされたサンマを冷凍し、1年を通して商売ができました。しかし近年、水揚げ量は極端に少なくなっています。外国船の影響、環境変化、黒潮の動き。原因は一つではなく、サンマは「取れてくれ」と祈らなければならない魚になってしまいました。
それでも、諦めるという選択肢はありません。取れなくなったサンマをどう活かすか。ポーポー焼きや加工品、食育事業へとつながっていく。紙芝居で縄文時代から続く食文化を伝え、すり身に野菜を混ぜ、焼いて食べてもらう。最初においしい体験をしてもらうことが、魚嫌いを生まないと信じています。スーパーで「食育をやった子たちが買っていったよ」と聞く瞬間が、何よりうれしい。
水揚げが増えてきた伊勢海老やタチウオ、目光(メヒカリ)など、これまで地元で食べ慣れてこなかった魚にも目を向けています。いずれはもう一つの柱をつくること。そして、漁業者そのものを育てる仕組みづくりにも関わっていきたいと考えています。
戻れるなら、必要な時にもっとサンマを買っておきます(笑)。
生まれ変わっても、サンマでいいかもしれないですね。
サンマとともに育ち、サンマに振り回され、それでもサンマと生きていく。上野台豊商店の仕事は今日も、小名浜の現場で続いています。
